『白頭光明星の誕生〜大自然の祝福〜』


白頭山(ペクトゥサン)は無辺際で雄渾きわまりなく、千変万化の偉観を持つところから、古来神秘の山と呼ばれてきた。悠久な民族史と共に伝えられてきた白頭山の名には、四季折々白いたてがみをなびかせ、その勇姿のなかに民族の魂と英知を象徴した祖宗の山という意味が込められている。

白頭山から少し南には小白山(ソペクサン)が眼下に見え、白頭山と小白山の間には間白山(カンペクサン)と呼ぶ、いま一つの峻嶺が望まれる。その間白山の山並みに、まるで鋭く削ったようにそびえ立つ雄峰が正日峰(ジョンイルボン)である。

古来名山大河から名人が生まれるというが、玉流金珠のごとき小白水(小白山の川)を間に挟み、祖宗の聖山・白頭山周辺の高山峻嶺にかこまれた正日峰のふもとに、金正日書記の生家が位置している。昔の人々がその生家を見たならば、なるほど天下第一の明堂だといって膝を打ったに違いない。

抗日の伝説的英雄である金日成将軍は、1936年9月、正日峰のふもとに位置するその場所に、祖国解放戦争の指令塔的拠点である白頭山密営を創設し、1930年代後半期と1940年代前半期の抗日戦を精力的に指導した。

1940年代にはいると内外情勢は激動し、ナチスドイツのソ連侵攻と、それに合わせた日本帝国主義の真珠湾攻撃とマレー半島上陸作戦が開始され太平洋戦争が勃発したのである。

日本は急激に高まった戦時需要を充当するために、朝鮮で人的・物的資源を略奪しようと血眼になり、彼ら侵略者とわが同胞たちの対立はいっそう先鋭化した。

季節は厳冬の最後のあがきの中で春が胎動し、植民地圧政の氷河の下で解放の気運が高まりはじめていた。

世界大戦の砲煙が地球を覆い、抗日解放の銃声が白頭の地軸を揺るがす中で、1942年2月16日の陽光が眩しく輝いた。そして天池(白頭山頂上の池)の厚い氷が割れはじめ、その音が谷間に響き渡った。長い間天池の水底にはらまれていた朝鮮の大通運(大幸運)が噴出するかのように、そう快なその響きは白頭の峰々にこだましていった。つづいて正日峰のふもとに建つ丸木小屋からは、まるで千古の静寂を破って巨人が誕生するかのように、力強い呱々の声が響き渡った。

民族の太陽であり祖国解放の救世主である金日成将軍と、抗日の女性英雄である金正淑女史の長男として、金正日書記が誕生したのである。

この歴史の日を待ちこがれたのか、冬の間も凍らずに耐え抜いた白頭水の流れが、清らかな息吹を含んで白く美しい霜の花畑をつくっていた。そして正日峰の頂上では白銀に輝く花吹雪が舞っていた

それはまさしく大自然の祝福であった。またそれは、偉大な民族の息子の誕生を迎える白頭山の歓喜でもあった。

金正日書記はその誕生からして、このように祝福され、歓喜に彩られたものであった。まさに彼は白頭山の荘厳な気象と天池の清らかな精気を受けた祖宗の山、白頭山の息子なのである。

1968年7月18日、金正日書記は白頭山を登りながら活動家たちにこう語った。

「私は幼いとき、母から白頭山にまつわる話をたくさん聞きました。母はつね日ごろ『白頭山はお前の父が日本の侵略者を打ち倒した意義深い山であるだけでなく、お前が生まれたところだ』とよく話してくれました。ですから私は幼いときにこの世でもっとも貴重であり、意義深いところは白頭山だと思ったものです。はるかな昔から、われわれの祖先が祖宗の山と呼んできた白頭山は、私たちの領袖が抗日武装闘争を展開したその時から革命の聖山となりました。密林のなかを通りすぎこうして白頭山を見ながら歩くと、まるで懐かしい故郷の家の門を開け、見覚えのある庭へ入ったような気がします」

その日書記は、白頭山は歩いて登ってこそ探勝の喜びを知り、自然と親しみ、山岳美を味わうことが出来ると語り、歩いて頂上へ登った。

金正日書記が見下ろす白頭山の雄姿、それは歴史の怒涛にもひるまぬ檀君朝鮮の英知と気象が溶岩となって固まり、荘厳な天然の碑石となって栄光に満ちた抗日血戦史を語り継ぐ一編の雄渾な叙事詩であった。こぶし大の石を砂のように吹きとばす白頭の烈風も、書記の裾をひるがえしては春のそよ風のようにたわむれ、雄大な白頭山はその雄姿を支えて立つ石人像のようであった。

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