「言葉ではなく、デザインのみが、ゲームを語ってくれる」

---- I have no words and I must design ---- コスティキャンのゲーム論 ----

この記事は、1994年に英国のRPG雑誌 Interactive Fantasy に掲載された。


目次


世の中には様々なゲームがある。その種類たるや膨大なものだ。

ファミコンゲーム、コンピュータ / CD-ROM / ネットワークを媒体とするゲーム、アーケードゲーム、郵便ゲーム、電子メールゲーム、あちこちに氾濫しているアダルトゲーム、ウォーゲーム、カードゲーム、テーブルトークRPG、ライブアクションRPG、その他その他。そうだ。サバイバルゲーム、バーチャルリアリティ、スポーツ、乗馬も忘れてはいけない。こういったものは全てゲームだ。

ところで、いったいこれら全てに共通する要素があるのだろうか? いったい「ゲーム」とは何だろう? 「良いゲーム」と「悪いゲーム」をどうやって見分ければいいのか?

最後の問いについてだが、「良いゲームと悪いゲームを区別する」だけなら、もちろん誰もが普段からやっていることだ。乗馬で障害物を飛び越えたとき、ボードゲームのコマが取り除かれるとき、大切なアースエレメンタルのカードをしぶしぶ手渡すとき、宝物を他人にも分配せざるを得ないとき、君は言う。「よく出来たゲームだよな」
しかし、これは本を閉じて「よく出来た本だよな」と言うのと変わらない。そりゃ間違ってはいないが、だからといって、もっと良く出来た本を書くための役に立つわけでもない。

ところが、ゲームデザイナーは、ゲームを評価し、ゲームを理解し、それがどのように機能し、なぜ面白いのかを理解するための方を求めている。つまりゲームを分析するための手を考えなければならないわけだ。

ゲームは驚くべき成長を遂げつつあり、また仰天するほど多種多様な形態をとっているが、基本的には新しい分野であり、古い手でこれを分析することはできないのである。

そもそも「ゲーム」とは何なのか?

「ゲーム」は、パズルではない

Chris Crawfordは、その著書"The Art of Comper Game Design" の中で、彼が呼ぶところの「ゲーム」と「パズル」を比較して、のように述べている。
パズルは静的である。パズルが提するものは、論理的な構造体だ。「プレーヤー」は、手掛かりをもとに、この構造体を解決しようとする。これに対して、「ゲーム」は静的ではない。ゲームはプレーヤーの行動によって変化する。

ゲームでないことが明らかなパズルもある。例えば、誰もクロスワードパズルを「ゲーム」とは呼ばないだろう。しかしながら、Crawfordによると、世の中で「ゲーム」と呼ばれているものの中には、実際には「パズル」に過ぎないものがあるそうだ。 Lebling & Blank の「ゾーク」が良い例だろう。このコンピュータ・アドベンチャー・ゲームの目標は、要するにパズルを解くことだ。「ゾーク」においては、プレーヤーは、アイテムを発見し、それらを正しく使ってソフトの状態を望むように変化させようとする。そこには競争相手はなく、ロールプレイもなく、管理すべき資源もない。「ゾーク」における「勝利」とは、パズルの解決に他ならない。

もちろん、「ゾーク」が完全に静的ではないということも確かだ。キャラクターはあちこち移動できるし、とれる行動は場所によって変わってくる。また行動の結果によって所持品リストが更新されてゆく。だから、単純にゲームかパズルかというのではなく、割合という発想が必要になってくる。クロスワードパズルは100%パズルだが「ゾーク」は90%パズルで10%ゲームだ、というように。

実際、ほとんど全てのゲームが、多かれ少なかれパズルの要素を含んでいる。純粋なシミュレーション・ウォーゲームにおいてさえ、プレーヤーは、例えば「特定のユニット群を使って、特定の地点に最適な攻撃を仕掛けるには、どうすればよいか」といったパズルを解かなければならない。パズルの要素を全く含まないゲームがあるとすれば、ほとんど「探検」を行うだけのゲームがそれに相当するだろう。うまい例として、CD-ROM版「おばあちゃんとぼくと」が挙げられる。これはいわゆる「インタラクティブ絵本」というやつで、ゲームに似た意思決定や探の要素を含んでいる。つまり、画面のあちこちをクリックすると、面白い音や動きを引き起こすことが出来る。しかし、そこには事実上何も「解決」すべき課題はないし、ましてや戦術は必要ない。

「パズル」は静的であり、「ゲーム」はインタラクティブである。

「ゲーム」は、玩具ではない

コンピュータ・シミュレーション・ゲーム「シムシティ」のデザイナーである Will Wright によると、「シムシティ」は「ゲーム」ではなく、「玩具」なのだそうだ。
彼は、本物よりずっと輝かしい仮想的なボールを作り出したわけだ。このボールは奇妙な動きをするので、色々と試してみることが出来る。壁にぶつけて反射させることも出来るし、回転させることも、投げることも、ドリブルすることも出来る。そして、望むなら、このボールで「ゲーム」をすることも出来る。サッカーでもバスケットボールでも何でも可能だ。
しかし、ボールそれ自体にはゲームの要素は含まれていない。プレーヤー間で決められた約束事の集合体がゲームなのであり、ボールはそれを実行するために使われる玩具に過ぎない。

「シムシティ」もそうだ。他の似たようなコンピュータゲームと同様に「シムシティ」はプレーヤーがいじくりまわせる仮想世界を作り出す。しかし本当のゲームなら提すべきである「目標」を与えることはしない。ああ、もちろんプレーヤーが自分で目標を決めることは出来る。「スラム街を一掃する」といったような。だが、「シムシティ」それ自体に勝利条件はなく、したがって目標はない。これはソフトウェア玩具なのだ。

「玩具」もインタラクティブだが、「ゲーム」はそれに加えて目標を持つ。

「ゲーム」は、ストーリーではない

ゲーム関連の話をしているとき、「ストーリー」なるものが話題になる機会は非常に多い。やれインタラクティブ小説のストーリーがどうした、 RPG リプレイのストーリーがこうした、などなど。どうやらゲームデザイナーの頭には、「ゲームとストーリーには何か関係があるに違いない」という発想が染みついているようだ。しかし、これは本当だろうか。少なくとも、この点についてはもう一度よく考え直してみる必要があると思う。

ストーリーは、もともと直線的なものである。登場人物が厳しい選択に直面し、苦悩のあげく決断を下すシーンがあったとしよう。しかし、実はその決断は作者によってあらかじめ定められたものであり、読者が何度ストーリーを読み返しても変化しない。その決断によって生ずる結末もまた変わらない。
あるいは、こう言うことも出来る。ストーリーはまさに直線的であるが故に、人を感動させる力を持つ。作者は、きちんと効果を計算した上で、そのストーリーを語るのに最適な登場人物を作り出し、イベントを起こし、決断を下させ、結末を用意する。だからこそ、出来上がったストーリーは可能な限り最も感動的なものになる。もし、登場人物が作者の予定と違う行動をとったとすれば、きっと出来上がるストーリーは、予定よりつまらないものになるだろう。

これに対して、ゲームはそもそも直線的ではない。ゲームには必ず意志決定が関わるが、このとき与えられる選択肢は、どれも本当にもっともらしく思えるものでなければならない。でなければ、すなわち「正解」が1つしかなく、それを選ぶ以外に道がないことが明らかなら、それは本当の意味での意志決定とは呼べない。
プレーヤーがゲームのある局面で特定の選択肢Aを選び、にそのゲームをプレイしたときに選択肢Bを選んだとして、どちらも全く合理的な判断に基づいている、というのがゲームらしさなのだ。
であるからして、ゲームをストーリーに近づければ近づけるほど、それはより直線的になってゆき、本当の意味での意志決定が少なくなってゆき、つまるところゲームとは別物になってゆくのである。

ちょっと考えてみてほしい。あなたが本を買う、あるいは映画を観るのは、素晴らしいストーリーに感動したいからだろう。ところが、RPG をプレイしているとき、ゲームマスターから「そんな行動は駄目だよ。素晴らしいストーリーが台無しになるじゃないか」と言われたらどう思うだろうか?この手のゲームマスターの発言自体は間違ってない。が、問題はそういうことじゃないのだ。ゲームは、ストーリーを語ることではない。断固として違う。

むろん、ゲームはしばしばフィクションから題材を借りてくるし、それで成功することも多い。テーブルトークRPG にとって小説的なキャラクターはとても重要だし、コンピュータ・アドベンチャーゲームやライブアクションRPG は、しばしば映画的なプロットをなぞる形で進行してゆく。それに、はっきりとした決着がつくようなゲームの場合、やはり小説や映画のようなドラマチックな盛り上がりを狙いたいというのは誰しも思うことだ。だからといって、美しいストーリーに沿って展開するようゲームに手をいれ過ぎたりすると、プレーヤーの行動の自由や、ちゃんとした意志決定を行う能力をひどく制限してしまうことになる。

話は変わるが、こういう観点からすると、ハイパーテキスト(訳註-1) という新しいフィクションの形態はとても興味深い。本質的にハイパーテキストは直線的ではない。したがって、従来の小説作法はハイパーテキストを作る上で全く役に立たない。
ハイパーテキストの作者だって、伝統的な作家と同じく実存的苦悩といったテーマを表現しようとしたりするわけだが、伝統的な作家と違うのは、それを複数の視点でとらえたり、プロットをあちこちに飛ばしたり、全体的な流れを読者に決めさせたりすることである。ハイパーテキストの作者がやっている作業は、伝統的な作家の仕事とゲームデザイナーの仕事を合わせたようなものだが、本人が意識する以上にゲームデザイナーとの共通点が多いような気がする。
ともあれ、もしハイパーテキスト小説が文学的な高みに達したら (もっとも私が読んだ限りでは、そういうレベルの作品は全く無かったけど)、それは新しい物語叙述手法、もはや「ストーリー」と呼ぶことは出来ない何か別のものを生み出すに違いない。

「ストーリー」は直線的である。「ゲーム」はそうではない。

「ゲーム」には参加者が必要である

伝統的な芸術形態においては、聴衆は受身の立場に置かれる。
例えば絵画を鑑賞する場合を考えてみよう。観客は描かれたものを解釈することが出来るし、ことによると絵描きが意図してなかったものまで見てとるかも知れない。しかし、それでも絵画鑑賞における観客の役割は小さい。絵描きが描き、観客は見るだけである。観客は受身の立場に置かれている。

映画、テレビ、演劇についても同じだ。観客は座って作品を鑑賞する。絵画の場合と同じく、ある程度まで観客が色々と解釈することは出来る。しかし、観客はしょせん観客であり、受身の立場に置かれていることに変わりはない。作品は観客とは別人が制作したものだ。

読書の場合、物語のシーンは紙の上ではなく読者の頭の中で展開する。しかしながら、結局のところ読者は作者の文章を読んでいることに変わりはなく、やはり受身の立場に置かれている。

こういう伝統的な芸術形態の発想、つまり「偉大なる芸術家が、恐れ多くもその才能の一片を無知蒙昧なる大衆に施したまう」というあり方は、あまりにも独裁的ではないだろうか。革命後200年も経っているのに、どうしてこのような貴族政治みたいな形態でしか芸術作品を創り出せないのだろう。今や、時代の流れに沿った近代的な芸術形態が求められていることは明らかである。人民の、人民による、人民のための芸術を我等に。

というところでゲームの話に戻ろう。
ゲームはルールの集合体を提する。そして、プレーヤーがそれらを使って自分自身のプレイを創造してゆく。これは John Cage の音楽作に似ている。彼は、完全な楽譜ではなく、テーマだけを作曲する。演奏家は、このテーマをもとに、即興で演奏しなければならない。ゲームデザイナーもテーマだけを作る。プレイするのはプレーヤーである。

これこそ、民主主義の時代にふさわしい民主的な芸術形態であろう。

伝統的な芸術形態は、受身の聴衆に対して与えられる。ゲームは、積極的な参加者を求める。

それで「ゲーム」とは結局のところ何なのか?

ゲームとは、芸術の一形態であり、プレーヤーと呼ばれる参加者が目標達成を目指して、ゲームトークンを介して資源管理のため意志決定するものである。この定義について、一つ一つ説明してゆこう。

意志決定

まず、あの大げさに騒がれている愚かな「インタラクティブ性」という言葉を、「意志決定」という用語で撃墜してやろうと思う。「これからはインタラクティブ性の時代だ」とかいった話を何度聞かされたことだろう。こういう空虚な言葉と「これからはクルムヘトロジャンの時代だ」とか口からでまかせ言うのと、どこが違うというのか。啓蒙的という点では、どっこいどっこいだろう。

インタラクティブ性がそんなに重要だと思うなら、電灯のスイッチを考えてみるとよい。スイッチを上げると電灯がつく。スイッチを下げると電灯が消える。おお、インタラクティブだ。しかし、これが面白いかね。

全てのゲームはインタラクティブである。すなわち、ゲームの状況はプレーヤーの行動によって変わってゆく。もし、そうでないなら、それはゲームでなくてパズルだろう。

しかし、だからどうだと言うのだ。インタラクティブ性それ自体は何の価値もない。インタラクションが意味を持つためには、「目標」がなければならないのだ。

こう考えてみよう。ここにインタラクティブな作品があるとする。これをプレイしているとき、AかBかどちらか一方の行動を選択しなければならないことになった。

しかし、Aを選ぶとすれば、AがBより良い理由は何だろうか。あるいはBの方が良いケースも、Aの方が良いケースもあるのだろうか。意志決定のためには、何を考慮すればよいのだろうか。管理すべき資源は何だろうか。最終的な目標は何だろう・・・。

ほーら。誰も「インタラクティブ性」なんて問題にしないだろう。考慮に値するのは、「意志決定」という問題なのだ。意思決定の必要性こそが、ゲームの本質なのである。

「チェス」を考えてみよう。「チェス」には、一般にゲームを魅力的なものにする要素がほとんど含まれていない。そこにはシミュレーションも、ロールプレイも、雰囲気を出すためのちょっとした小道具もない。あるのは、意志決定の必要性という要素だけである。「チェス」のルールは極めて厳密であり、目標は明らかにされており、何手か先を読まなければてない。「チェス」がゲームとして成功しているのは、ひとえに意志決定の要素が優れているからに他ならない。

そもそもゲームにおいてプレーヤーがしていることは何だろう。ある意味では、それはゲームを遊ぶ手段に依存している。ダイスを振っている、他のメンバーと交渉している、キーボードをいている、など。しかし、本質的な答えは「意志決定している」ということなのだ。

プレーヤーは、常にゲームの状況を検討する。ゲームの状況はディスプレイに表示されていることもあるし、ゲームマスターが説明してくれることもある。ボード上のコマなどの配置として示されることもある。プレーヤーは、常にゲームの状況を検討する。ゲームの状況はディスプレイに表示されていることもあるし、ゲームマスターが説明してくれることもある。ボード上のコマなどの配置として示されることもある。にプレーヤーは、最終的な目標、ゲームトークン、持てる資源などを念頭に置きつつ、障害物をどうやってクリアするか考える。それから、可能な限り最善の手を指そうとする。

そして、意志決定する。

ここでキーポイントになるのは、目標、障害物、資源管理、情報といった要素なのだ。

ゲームを分析するときには、「このゲームでは、どのような意志決定が求められるのか」ということを考えなければならない。

目標

「シムシティ」には目標がない。ということは、これはゲームではないのだろうか。

然り。デザイナー自身が言うように、これはゲームでなく玩具なのである。

「シムシティ」を長く楽しむためには、自分で目標を決めて、これをゲーム化しなければならない。その目標が可能な限り最大のメガロポリスを作ることであれ、市民の忠誠心を最大にすることであれ、運輸業だけで成り立っている都市を作ることであれ、とにかく目標を決めることで、「シムシティ」はゲームへと変化するのである。

しかしながら、それでもこのソフトはプレーヤー自身が決めた目標をサポートするようには出来ていない。特定の目標を念頭にデザインされたものではないのである。一般に、デザイナーが想定してないやり方でソフトを使うと、しばしば非常にイライラするはめに陥るものだということを忘れてはいけない。

目標が定められていないために「シムシティ」はすぐに飽きられてしまう。これに対し、Sid Meier と Bruce Shelley の「シビライゼーション」は、明らかにシムシティを真似してデザインされたにも関わらず、明確な目標があるため、プレーヤーは「シムシティ」よりずっと熱中し、ハマってしまう。

「ゲームにとって目標が大切だというなら、RPG はどうなるんだ。RPG には勝利条件がないじゃないか」という反論が出るかも知れない。

確かにRPGには勝利条件がない。その通りだ。しかし、RPGにも目標がある。おなじみの「経験点稼ぎ」とか、親切なゲームマスターがしつけてくれたクエストを達成するとか、帝国を再建して恒星間文明の崩壊を防ぐとか、悟りの境地に達するとか、そういったことだ。

もし何かの事情でたまたま目標がなかったとしても、PCはすぐに何か目標を見つけ出すことだろう。そうでなければ、そのPCは酒場で「何てつまらないゲームだ」とぶつぶつ文句を言うくらいしかすることがなくなってしまう。そういうことになったら、ゲームマスターだって怒って、いきなり酒場にオークの群れを乱入させて、そのPCに殴る蹴るの暴行を加えてやろうとするに違いない。

よしよし、これで目標が出来た。とにかく生きのびる、というのは立派な目標だ。最大の目標と言ってもいい。

ともあれ、目標がなければ意志決定は無意味になってしまう。A も B も同じこと。どちらでも好きな方を選びたまえ。どっちを選んでもどうせ何の違いもないのだから。
どちらを選ぶかが違いを生むためには、つまりゲームが意味を持つためには、何か狙うべき対象、つまり目標が必要になるのだ。

ゲームを分析するときには、「このゲームの目標は何か。目標は単一か。複数の目標があるなら、各プレーヤーが自分の目標を決めることが出来るようにするための仕掛けは何か」ということを考えなければならない。

障害物

いわゆる「政治的に正しい(訳註-2)」発言をしてみよう。昔ながらの「ゲーム」なる邪悪なものは、あまりにも敵対心を煽りすぎる。子たちには、もっと協力的な遊戯を与えるべきだ。ぱちぱちぱち、ご静聴ありがとうございました。

"さて、「協力的な遊戯」というのは、つまるところ「さあ、みんなでボールを投げてみよう」というやつに他ならない。おお、何と魅惑的な遊戯だろう。君、「モータルコンバット(訳註-3)」をプレイしている場合じゃないぞ。

ところで、ゲームにおいて「敵対」という要素は重要だろうか。

答えはどちらとも言える。他のプレーヤーを自分の頭脳できのめすことに喜びを感じる人は多い。特に「チェス」のプレーヤーは、まさにこれである。決して悪いことじゃない。少なくとも、敵を自分の拳できのめすことに喜びを感じるよりはましだろう。

しかしながら、ゲームにとって本質的に重要なのは「敵対」ではなく、目標に向かっての「努力」なのである。

ここで1つ、私がデザインしたゲームを披露する。名前は「小英帝国」。第2次世界大戦でのフランス陥落後のイギリスを扱ったヒストリカル・シミュレーションゲームだ。君の目標は、自由と民主主義を守り抜き、邪悪な圧制者を打ち破ることである。
行動を選択して下さい。
A. 降伏する
B. ヒットラーの目に唾をはきかけてやる!
ブリタニア万歳! 英国は、決して、決して、決して屈伏しない!

あなたはBを選択しました。これでよろしいですか(Y/N) Y

おめでとう! あなたの勝利です!

おや、ご不満ですか。なるほど「勝利のスリルがない」と。
もちろん、これでは勝利のスリルも何もない。あまりにも簡単だからだ。努力して乗り越えるべき障害物が与えられないと、こういうことになる。

2人用対戦ゲームでは、あるプレーヤーにとって障害物となるのは、すなわち対戦者である。プレーヤーは対戦相手を打ち負かすために努力する。2人のプレーヤーは、単純な敵対関係で結ばれている。これが、ゲームに障害物という要素を持ち込む最も基本的なやり方だ。本気で戦う人間を打ち負かすことほど難しく、技量が要求されることは他にない。対戦者こそ最も手ごわい障害物である。しかしながら、これ以外にもゲームにおける障害物は色々と考えられる。

物語のストーリーを思い出そう。最も基本的なストーリーはこうだった。主人公Aに目標が与えられる。彼は障害物B, C, D, E に直面する。Aは努力の末、障害物を一つ一つ克服してゆく。そしていよいよ彼は最後の、そして最大の障害物にぶつかり、ついにそれを乗り越える。めでたしめでたし。

ところで、この障害物 B, C, D, E は、必ずしも悪漢、悪役、敵、仇といった人間である必要はない。むろん、よく出来た敵は優れた障害物となるが、他にも、大自然の猛威、邪魔な役人、交通事故、さらには主人公自身の葛藤といったものも立派な障害物になりうる。

ゲームも同じことだ。

普通のRPGでは「障害物」はNPCであり、プレーヤー同士は互いに協力することになっている。コンピュータゲームでは、「障害物」は解かなければならないパズルの形をとることが多い。ライブアクションRPGにおける「障害物」は、必要な手掛かり・アイテム・特殊能力を持っている他のプレーヤーを見つけることの困難さということになる。一人遊びの場合は、立ち向かうはめになったランダム要素、またはランダム要素を含むアルゴリズムが、実のところ「障害物」として働く。

何をゲームの目標として設定するにせよ、プレーヤーがその目標に向かって努力するように仕向けなければならない。プレーヤー同士を敵対関係にするのも一つの方だが、他にも方はある。また、プレーヤー同士が敵対している場合でも、さらに他の障害物を出して双方をくというのも、ゲームを面白く感動的なものに出来る手だ。

「協力的な遊戯」が望ましいというのは、「争いがなくなること」が望ましいということだ。だが、もし全ての争いをなくしたければ、全ての生命を抹殺するしかないだろう。生命とは生存と成長のための戦いなのだ。この世では、争いが絶えることは決してない。
そして、努力のいらないゲームは、死んで腐ったゲームなのである。

ゲームを分析するときには、「このゲームの障害物は何か。それを克服するための努力を強いる仕掛けは何か」ということを考えなければならない。

資源管理

あまりにも容易な意志決定は、ちっとも面白くない。
「小英帝国」を思い出してみよう。あそこには、真の意志決定はなかった。

あるいは、Robert Harris の「タリスマン」を考えてみてもいい。このボードゲームでは、ボードの外周に沿ってマス目が並んでおり、プレーヤーは自分の手番にダイスを振って、出た目だけコマを進める。このとき、コマを左右どちらに動かしてもよいことになっている。
移動方向の選択が可能ということで意志決定の要素があり、古典的なスゴロクに比べて少しはましである。しかし、 100回のうち99回は、どちらの方向に動かしても同じであるか、どちらに動かした方が有利か明らかであるため、意志決定の意味がなくなってしまう。

意志決定が意味を持つためには、プレーヤーに管理すべき資源を与えなければならないのである。「資源」と見なしてよいものはたくさんある。機甲師団、補給ポイント、カード、経験点、魔の知識、領土の所有権、美女の愛、上司の信頼、NPCの好意、所持金、食料、セックス、名声、情報。

さらに、ゲームに複数の「資源」があれば、意志決定はにわかに複雑になる。これをやればお金と経験点を得ることが出来るが、リサに嫌われてしまうかも知れない。食料を盗めば飢え死にしなくて済むが、捕まれば見せしめに手を切断されるはめになる。バロア王家に対して宣戦布告すれば、エドワード英国王は我にガスコーニュを領地として与えて下さるだろうが、教皇は我を破門するかも知れぬ。さすれば我が永遠なる魂も風前の灯なり・・・。

これらの意志決定は、単に複雑だというだけでなく、面白い葛藤になっている。そして、面白い葛藤は、ゲームを面白いものにしてくれる。

こういうわけで、ゲームにおける資源はルール上の意味を持ってなければならない。もし「我が永遠なる魂」というのがルール上の意味がないなら、破門されようが何されようが大した問題ではない。「いや、破門されると農奴の忠誠心が下がるとか兵士を集めるのが困難になるといったデメリットがある」と言う人もいるかも知れないが、もしそうなら、それは農奴や兵士がルール上の意味を持っているということだ。さようでございますな?

結局のところ、「管理すべき資源」というのは、目標を達成するために管理すべきルール上の要素、ということになる。なぜなら、ルール上の意味がない「資源」をいくら考慮しても、目標を達成するために役に立たないわけだから、つまるところ管理するだけ無駄ということになるから。

ゲームを分析するときには、「このゲームにおいて、プレーヤーが管理すべき資源は何か。それらの資源は、意志決定の際に葛藤を引き起こすよう配置されているか。その意志決定は面白いものになっているか」という点を考えなければならない。

ゲームトークン

ゲームにおける行動は、ゲームトークンによって実行される。ゲームトークンとは、直接プレーヤーが操作できる任意のものである。
ボードゲームにおけるコマ、カードゲームにおけるカード、RPGにおけるキャラクター、スポーツにおいてはプレーヤー自身が、ゲームトークンである。

「資源」と「ゲームトークン」は別物である。資源は、目標を達成するためにうまく管理しなければならないものであり、ゲームトークンは資源を管理するために使われる手段である。

例えばシミュレーション・ウォーゲームにおいては、「戦力」が資源に相当し、部隊を表す「カウンター(コマ)」がゲームトークンになる。RPGなら、例えば「所持金」は資源に相当する。ゲームトークンである「キャラクター」を使って資源を貯めたり浪費したりするわけだ。

ゲームトークンがなぜ重要か。それは、もしゲームトークンがないなら、プレーヤーはなすすべもなく、ただルールシステムが勝手にゲームを進めてゆくのを見守るしかなくなってしまうからである。
Will Wright とFred Haslam
の「シムアース」が良い例だ。「シムアース」では、プレーヤーはいくつかのパラメタを設定して、後はゲームが勝手に進行するのを座って見ていることになる。ゲーム進行中にプレーヤーにできることはほとんどなく、操作するゲームトークンも、管理する資源も与えられない。プレーヤーに与えられるのは、いじくり回せるいくつかのパラメタだけだ。おかげで、このゲームは退屈ではないにせよ、それほど面白くもない。

プレーヤーが、自分の運命を自分で決めていると感じる、つまりゲームをプレイしていると実感するには、ゲームトークンが不可欠なのである。
ゲームをデザインするときは、ゲームトークンの数を少なくすればするほど、個々のゲームトークンを詳細化するように注意しなければならない。各プレーヤーにたった1つしかトークンを与えないRPGにおいて、トークンの機能が他に例を見ないほど細かく規定されるのは、決して偶然ではないのである。

ゲームを分析するときには、「このゲームにおいて、プレーヤーに与えられるゲームトークンは何か。そのトークンの機能は何か。トークンが動かす資源は何か。それを面白くしている仕掛けは何か」という点を考えなければならない。

情報

あるコンピュータ・ゲームデザイナーと何度か話をしたことがある。彼は、自分がデザインしたゲームがシミュレートしている魅力的なパラメタについて教えてくれた。私は、ただ「へぇ、そうなのか。そりゃ気づかなかったな」と言うばかりだった。

あるコンピュータ・シミュレーション・ウォーゲームでは、「天候」という要素が、部隊の移動や防御力に与える影響をシミュレートしているものとする。しかし、もし説明書にそのことを書かなかったとすれば、それに何の意味があるだろう。プレーヤーは天候が意味を持っていることを知らないため、天候を無視して行動するだろう。つまり、天候はプレーヤーの意志決定に何の影響も与えないだろう。

あるいは、説明書に「天候は戦局に影響します」と書かれていたとしても、プレーヤーには現在の天気が雨なのか雪なのか何なのか知るすべがないとすれば、やはり天候をシミュレートする意味はなくなってしまうだろう。

説明書に記述があり、現在の天候が画面に表示されるとしても、天候が戦局にどのように影響するか、例えば「移動力が全て半分になる」とか、「荒地を移動するときは這うような速度になるが、道路上の移動には影響しない」とか、そういったことを知ることが出来ないとしよう。今までよりはだいぶましだが、やはり不満が残る。

重要な情報はちゃんとプレーヤーに教えるべきだ。そして、プレーヤーは、微妙な意志決定を行う際に、充分な情報を与えられているべきである。

「プレーヤーには全ての情報を知らせるべきだ」と主張しているわけではない。情報を隠すことがとてもうまく働く場合もある。「戦闘が始まるまで自分の部隊の戦闘力は分からないよ」というのは全く理にかなっている。だが、この場合でも、戦闘力がどのくらいの範囲に入っているかについて、ある程度の推測が可能になってなければならないだろう。
同じように「ストレートを狙ってカードを引いても、実際にどのカードが来るかは分からないよ」というのも理にかなっているわけだが、これでゲームが成立するのは、山札にどんなカードが含まれており、望むカードを引く確率がだいたいどの程度あるのか推測できるからに他ならない。もし引いてくるカードの可能性が、「ハートのQ」「死神」「戦艦ポチョムキン」など何でもありだとすれば、いったいどうやって意志決定できるだろうか。

そもそもプレーヤーに不必要に多くの情報を知らせるべきでない。特に時間制限のあるゲームではそうだ。天候、補給状況、指揮官の精神状態、兵士の疲労、昨晩ラジオで Tokyo Rose (訳註-4) がしゃべったこと、こういったこと全てが戦局に影響するとして、5秒以内に動を決定しなければならないとしよう。もし画面にメニューを表示させて、これら全ての情報を調べようと思ったら、5分はかかるに違いない。この場合、大量の情報を提してもあまり意味はない。プレーヤーが制限時間内にこれらにアクセス出来たとしても、それを有効に活用することなど無理だからだ。

あるいはコンピュータ・アドベンチャーゲームを考えてみよう。画面に情報を適切に表示しないケースは多い。
「おや、タナトスの門を開くには、鍵あけのためのピンが必要ですよ。ピンは図書室の床に落ちていたでしょう。だいたい3×2ドットの大きさで、あなたの視力が良ければ見えたはずです。場所は12番目と13番目の床板の間で、画面の上から3インチくらい下に表示されていました。ちゃんと情報は示しましたよ。なに、見落とした? それでは残念ながらゲームオーバーです。もう一度最初からやりますか?」

確かに見落としたのは私だが、だからといって必要なアイテムが何か推測すら出来ないとか、3時間38分前のミスが原因で袋小路にはまるとか、パズルの答えがあまりにも強引だとか、そういうのは良くないと思う。特にどのゲームとは言わないが。

「フリーフォーム」ゲームを見てみよう。この場合、しばしばプレーヤーに目標が与えられる。目標を達成するためには、いくつかのこと(仮にA,B,C と呼ぶことにする)を見つけなければならない。
このとき、デザイナーは、A,B,C が、探せばちゃんと見つかるようにしておいた方がいい。他のキャラクターが知っているとか、ゲームで使うカードに書いてあるとか、手段はともかく、見つける方が何かあるようにするのだ。でないと、プレーヤーは絶対に目標を達成することが出来なくなる。そして、絶対に勝てないゲームは実につまらない。

ゲームを分析するときには、「プレーヤーに意志決定させるためにどんな情報が必要とされるか。プレーヤーに適切な情報が適切なときに与えられるようになっているか。プレーヤーが考えれば必要な情報が何でありどうすれば手に入るか推測できるようになっているか」という点を考えなければならない。

「ゲーム」を魅力的なものにする他の要素

相互支援と交渉

もし努力して克服すべき障害物が何もないなら、目標を達成することには何の意味もない。だが、プレーヤー同士が互いの障害物になるゲームの場合でも、必ずしもそのゲームが「ゼロサム型(訳註-5)」だということにはならない。マルチプレーヤーゲームの場合、プレーヤー間の交渉を認めれば、さらには推奨すれば、そのゲームはより魅力的なものになる。

交渉を認めることで、プレーヤー同士では直接援助しあったり、または共通の敵を前に同盟を組んだりすることで、相互支援が可能になる。
全てのマルチプレーヤーゲームがプレーヤー間の相互支援や同盟という要素を取り入れているわけではない。例えばCharles B. Darrow の「モノポリー」では、他のプレーヤーを助けたり邪魔したりする良い方がない。このため、「二人で同盟を組んで買い占めようぜ」とか「君は初心者だから助けてあげよう。代わりに僕に協力するという条約を結んでおくれ」とか言う理由がないのだ。

また、相互支援という要素を少しだけ取り入れているゲームもある。 Lawrence Harris の「アクシス&アライズ」では、プレーヤーはある程度まで互いに協力することが出来る。しかし、どのプレーヤーも最後まで枢軸国側(アクシス)か連合国側(アライズ)かであり、寝返ったりすることが出来ないため、このゲームでは相互支援は補助的な役割しか持っていない。

ゲームに相互支援を全面的に取り入れる1つの方は、複数プレーヤーの同時勝利を可能にすることだ。もし君が「失われたアーク」を探す考古学者で、私がナチスと戦う軍人であり、今やナチスがアークを手に入れてしまったとすれば、我々は手を握ることが出来る。ただし、もしフランスのレジスタンスがナチスからアークを奪回すれば、この同盟は解消され、我々は敵対することになるだろう。しかし、こういう展開はゲームを面白くしてくれる。

プレーヤー同士が敵対するゲームでも、相互支援を取り入れることは出来る。外交ゲームの名作と言えば、もちろん Calhammer の「ディプロマシー」だろう。このゲームで勝利するためには、戦略より外交の方が重要になる。キーとなるのは「支援」行動であり、これにより自国の軍で他国の攻撃を支援することが出来る。このため、同盟を組むことが大切になってくるのである。

「ディプロマシー」では、同盟は長続きしない。これは確かである。ロシアとオーストリアは、トルコと戦うために同盟を組むかも知れないが、最終的な勝利者は1人だけであるため、いずれどちらかが裏切ることになるだろう。

素晴らしい。裏切りが可能だからこそ、同盟を組み、それを維持する必要が生ずるのだ。他のプレーヤーを説得して味方に引き入れよう。でないと、外交の機会すら失ってしまう。もし裏切ることが出来ないとすれば、外交の必要もなくなってしまうだろう。

コンピュータゲームは本質的にほぼ完全な一人遊びであるため、コンピュータ側のNPCと交渉することが出来る場合でも、一般にそのような交渉はあまり面白くない。これに対して、ネットワークゲームは、本質的に交渉ゲームである。あるいは、そうあるべきである。
しかし、ネットワークゲームが普及するにつれ、コンピュータゲーム畑で育ったデザイナーがネットワークゲームのデザインに手を出すようになり、交渉というポイントを全く見落としてしまうのではないだろうか。それが証拠に、インタラクティブTVネットワーク (訳註-6) の計画が話題になるとき、ゲームについては必ず(ニンテンドーやセガの)家庭用ゲームマシンのソフトをケーブルTVでダウンロードするという話しか出てこない。
これはビジネス上の理由によるものだ。家庭用ゲームマシン市場は、年間何 10億ドルもの売上を出しており、彼らはそのおこぼれにあずかりたいのだ。だが、彼らはネットワークが全く異なったゲームを提できる可能性について考えたことがないに違いない。これこそ、それだけで何10億ドルもの市場が期待できる本当のビジネスチャンスなのに。

ゲームを分析するときは、「プレーヤーは、いかにして互いに協力したり足を引っ張ったりできるか。そうさせる動は何か。交渉のネタになる資源は何か」ということを考えなければならない。

雰囲気

「モノポリー」は、不動産業をリアルに扱ったゲームだ。そうだろう?

いやいや、違う。もちろん違うとも。そんなことを言ったら、不動産屋に笑われてしまう。建築ローン、不動産組合とその活動、当局の監査員への贈賄、そういったものをルール化しなければ、不動産業をリアルに扱ったゲームとは呼べない。
「モノポリー」は、実際の不動産業とは何の関係もないのだ。お望みなら、このゲームのルールをそのままにして、ボードやコマやカードの記述を変えるだけで、例えば宇宙探検ゲームにすることも出来るだろう。こうしてでき上がる宇宙探検ゲームが、実際の宇宙探をリアルに表していること、ちょうど元の「モノポリー」が実際の不動産業をリアルに表しているのにるとも劣らない。

実際のところ、「モノポリー」は抽象的なゲームであり、何も具体的なものをシミュレートしているわけではないのだ。しかし、このゲームでは、わざと不動産業の雰囲気を出すために、土地の名前、家やホテルの形をしたプラスチックのコマ、紙幣といったものを小道具として使っている。そして、これこそが「モノポリー」を魅力的にしている要素なのである。

ゲームにおいて雰囲気は非常に大切である。
Lawrence Harris の「アクシス&アライズ」は、第2次世界大戦を正確にシミュレートしているとはとても言えない。しかし、雰囲気はどうだ。ところ狭しと並べられるプラスチックの戦闘機、戦艦、戦車。盛り上がるダイス振り。眼下に繰り広げられる戦場。このゲームの魅力は、ほとんど全て雰囲気という点にある。

あるいは Chadwick の「スペース1889」を取り上げてみよう。これは、バローズの冒険活劇、パルプフィクションの興奮、キップリングのビクトリア時代を混ぜこぜにして味わってもらおうというRPGだが、ルールを読む限りどうしてもそういう感じはしない。システムはよく出来ているし、背景世界設定も詳細なのに、どういうわけか雰囲気が出てないのだ。このため、このRPGは失敗作に終わっている。

このように、ゲームに心ひかれる魅力を与える上で、雰囲気作り、細かい設定、よいセンスといった要素は馬鹿にできない。これらがゲームの本質には何の関係もないとしてもだ。

「アクシス&アライズ」が最初に Nova から販売されたときには、ゲームとしては後から Milton Bradley から再販されたものと実質的に何の違いもなかった。しかし、このオリジナルバージョンは、神をも恐れぬケバい下品なマップと、今まで私が見たなかでも最悪のカウンター(コマ)を、どうしようもなくダサい箱に詰めて売っていたのだ。私はそれを一目見て、すぐにわきにどけてしまった。以来、このバージョンを見たことは一度もない。それなのに、Milton Bradley 版は、その小さなプラスチックのコマを使って何度も何度も遊んだものだ。同じゲームなのに、この違いが生ずる理由はただ1つ、すなわち雰囲気なのだ。

ゲームを分析するときには、「このゲームは、雰囲気を盛り上げ、背景世界を魅力的にするためにどんな工夫がほどこされているか。これをより雰囲気たっぷりにするには、どこをどう改善すればよいか」ということを考えなければならない。

シミュレーション

全てのゲームが何かをシミュレートしているわけではない。東洋の伝統的なゲームである「碁」を考えてみよう。盤の上に石を置いてゆくこのゲームは、ほぼ完璧なまでに抽象化されたゲームである。
あるいは、John Horton Conway の「ライフゲーム」でもよい。あたかも生命活動をシミュレートしているような名前をしているが、これは実のところ数学的な可能性を探索しているに過ぎない。
もちろん、だから悪いというわけではない。だが・・・
だが、前述したように、雰囲気というものはゲームをとても魅力的なものにしてくれる。そして、現実に存在する何かをシミュレートするというのは、この雰囲気作りのための1つの有効な手なのである。

ところで、私の見るところ、なぜかワーテルローの戦いを扱ったゲームはヒットすることが多いようだ。そこで、その気になれば「モノポリー」に手を入れて、例えば「パークプレース」を「カトル・ブラ (訳註-7)」に変え、ホテルのコマをプラスチックの兵隊に変えて、ゲームの名前を「ワーテルロー」に変えてしまえば、きっとヒットするゲームを作ることが出来るだろう。

けれど、戦争を、戦場を移動する部隊を、砲撃の轟きをシミュレートしたければ、こういう風にただ別のゲームの名前を変えるだけというより、もっとましな方があるのではないだろうか。

私がデザインした「スターウォーズRPG」の話をしよう。
単にスターウォーズらしい雰囲気を出すだけなら、Gygax & Arneson の「ダンジョンズ&ドラゴンズ」をもとにして、「剣」を「ブラスター」に変えるとか、そういった名前の変更だけですませることも出来たかも知れない。
だが、私の狙いは映画をシミュレートすることだった。プレーヤーには、すごくカッコいい映画的なアクションに挑戦してもらいたかった。そこで、私はあの映画が持っている雰囲気やノリを、ルールシステムそれ自体に反映させるようにしたのである。

シミュレーションには、他にも有益な点がある。その1つが、シミュレートされている人物についての理解や共感を深めてくれるということだ。さっきの例えに出てきた、「モノポリー」盗作版「ワーテルロー」をいくらプレイしても、誰もウエリントンやナポレオンの身になって考えたりはしないだろう。しかし、Kevin Zucker の「ナポレオンズ・ラスト・バトルズ(ナポオレン最後の戦い)」をプレイすれば、彼らが直面したであろう戦略的な問題について考せざるを得ないため、ずっとよく彼らの考えが理解できるようになるだろう。

それに、シミュレーションという手によって、当時の状況について単に歴史書を読むよりもずっと深い洞を得ることが出来る。シミュレーションであるため、戦いが史実と異なる結果に終わるケースについて研究できるのだ。ちょうど「シムシティ」で色々な街を作るのと同じように。結果として、プレーヤーは、シミュレートの対象について裏も表も知り尽くすことが出来るというわけだ。
実際、ワーテルローの戦いを扱ったシミュレーションゲームを、少なくとも
1ダースはプレイしてみたおかげで、私はこの戦いをよく把握できたと思う。なにゆえに実際の戦局があのようになったのか理解したし、ナポレオンの戦い方について洞を得ることも出来た。ワーテルローの戦いをテーマにした本を 1ダース読んでも、ここまで達することは出来ないだろう。

何かをちゃんとシミュレートしようとすると、単に雰囲気作りのために名前だけ拝借するのと比べて、まず確実にゲームが複雑になってしまう。だから、全てのゲームがシミュレーションという手を取り入れるべきだと言うつもりはない。
しかし、シミュレートという手は、ときとして真に驚くべきパワーを発揮することがあるということもまた事実なのである。

ゲームを分析するときは、「シミュレーションという要素が、このゲームをどのように魅力的なものにしているのか」という点を考えなければならない。

多彩な展開

「おまえ、運だけで勝ったな」

ありがちな負け惜しみのセリフである。自分は実力で負けたのではなく、単にツキがなかっただけなんだ、というわけだ。
こういうセリフが侮辱になるということは、経験と頭脳と実力でまさっている方が必ず勝利するようなゲームこそが良いゲームであり、運だけで逆転できるようなゲームは明らかに劣っている、ということだよね?

いやいや、必ずしもそうは言えない。

いわゆるゲームの「ランダム要素」というものは、決して完全にランダムなわけではない。ある範囲内でランダムな揺らぎを作り出すだけだ。
シミュレーションウォーゲームをプレイしているとき、私は攻撃するたびに戦闘結果チャートに目をやる。このとき、私は攻撃結果がどういう範囲に入るか、望ましい戦果があがる確率はどのくらいか、認識している。もちろん攻撃に伴うリスクも計算している。
個々の判定についてはランダム要素が大きいとしても、ゲームを最後までプレイする間には何10回、何100回となくダイスを振ることになるため、確率の基本法則が働いて、全体としてランダム性はある程度まで下がってゆく。極めて特殊なケースを除けば、より優れた戦略をとった方が必ず勝利を手にする。ダイス運だけで戦略的なミスを挽回するのは無理なのだ。

では、ゲームにおけるランダム要素は、重要な意味を持たないのだろうか。

いや、ランダム要素には大切な役割がある。それは、ゲームに多彩な展開をもたらす手の1つだということだ。これについて説明してみよう。

何度プレイしても、毎回同じ展開になるようなゲームは、ゲロゲロに退屈だ。プレーヤーは、今までに経験したことがないゲーム展開を望んでいるのである。そのためには、そのゲームがとりうる局面の数が極めて大きくなければならない。そうすれば、プレイする度に、いつも何かしら新しい展開が生ずることが可能になるのだ。

「チェス」のようなゲームでは、「何かしら新しい展開」というのは、コマの配置によって生ずる局面の変化である。 Richard Garfield の「マジック:ザ・ギャザリング」の場合、カードの種類、それらがスタックされる順序、カードの組み合わせによって生ずる効果などが多彩な展開を生み出す。
Arneson & Gygax の「ダンジョンズ&ドラゴンズ」で多彩な展開を生むのは、ちょっとたじろぐほど種類があるモンスター、呪文、その他に加え、次々に新しい状況を作りだすゲームマスターの力量である。

多彩な展開を生まないゲームは、すぐに飽きられてしまう。これが、コンピュータ・アドベンチャーゲームが何度もプレイできない理由である。最初にプレイするときは、充分に多彩な展開が用意されているように思えるのだが、何度かプレイすれば似たような展開にしかならないことがばれてしまう。トランプの一人遊びである「ペーシェンス」がすぐに飽きられてしまう理由も同じである。何度プレイしても似たような展開にしかならず、カードをよくシャッフルしても新たな興奮が生まれるわけではないのだ。

ゲームを分析するときは、「このゲームでは、どのような展開が生ずるか。それらはプレーヤーが何度も試してみたくなるほど多彩であるか。その多彩さを生み出す仕掛けは何か。展開をもっと多彩にするにはどうすればよいか」という点を考えなければならない。

感情移入

「キャラクターを立てる」というのは、あらゆる物語の創作活動に共通するテーマである。読者が、作品の登場人物を気にいり、感情移入し、その運命を気にするようになれば、作者冥利に尽きるというものである。

ゲームでも同じことだ。プレーヤーが、自分が味方している勢力に感情移入し、ゲーム内の出来事を自分自身の問題として感じるようになれば、ゲームは感動的な体験になりうるのだ。

最も直接的な例は、スポーツだろう。スポーツにおいては、感情移入の対象となるのは自分自身である。自分自身が野球のマウンドに立っており、勝敗は他人事ではない。三振したりホームランを打ったりするのは、まさに自分なのである。ゲームの進行は、自分自身の問題として感じられる。

このように、スポーツにおいてはゲームへの感情移入があまりにも強いため、プレーヤーが乱闘や罵倒といった行動に出てしまうことさえ、まれなことではない。こういった不快な行動を抑制するため、わざわざ「スポーツマンシップ」といった文化的行動規範を作り出さなければならないほどである。

スポーツと比較すると、RPGにおける感情移入は少し間接的になっている。感情移入の対象はプレーヤー自身ではなく、PCである。だが、プレーヤーは自分のPCを作成し成長させるために、多くの時間と労力を注ぎ込んでいる。その上、PCはプレーヤーが持っている唯一のゲームトークンであり、他には感情移入の対象はない。だから、PCに対する感情移入は自然と強まる。それゆえ、スポーツほど頻繁ではないにせよ、RPGのプレーヤーもゲームマスターを罵倒したり、さらには殴ったりすることがないとは言えない。

このように、プレーヤーがゲームトークンを1つしか持ってない場合、そのトークンに対して、ごく自然に感情移入してしまうものだ。逆に多くのトークンを操作できる場合、個々のトークンへの感情移入は困難になる。
「チェス」で、自分のナイト駒を取られたからといって悲嘆にくれる人はあまりいないし、シミュレーション・ウォーゲームで歩兵師団が1つ全滅したからといって首をくくる人もいない。
ただ、これらの場合でも、プレーヤーが「国」や「軍隊」といった唯一の対象に対して感情移入するように仕向けることが出来れば、ゲームをもっと感動的なものにすることが出来るのだ。

感情移入を促進する1つの手は、プレーヤーの視点をどこに置くか明確に決めることだ。
ボードゲームのデザインで非常によくある失敗が、視点の混乱というやつである。例えば、Richard Berg の「キャンペーン・フォー・ノースアフリカ(北アフリカ戦役)」だが、これは枢軸国の北アフリカ戦役を扱ったゲームで、並外れてリアルなシミュレーションを行っている。プレーヤーは、パイロット1人1人をどこに配属するかといったことから、個々の大隊における飲料水の補給状況に至るまで、長時間かけてあらゆることを管理しなければならない。
ところで、確かにロンメルの部下はこういったことを管理しただろうが、ロンメル自らが管理したはずはない。だとすると、全体的な戦略を考え、かつ細かい管理も行わなければならないプレーヤーは、いったいどちらの立場になっているのだろう。どちらに感情移入すればよいのだ。
これが視点の混乱である。このゲームでは、個々の項目を詳細にシミュレートしようとするあまり、ある意味ではかえってシミュレーションの正確さを台無しにしているのだ。

ゲームを分析するときには、「プレーヤーを感情移入させるにはどうすればいいか。プレーヤーにとって重要なゲームトークンを1つにする手だろうか。だとすれば、そのトークンに対する感情移入をより強化する方は何か。また、ゲームトークンを1つに絞らないのなら、何に対して感情移入させるのか。それを強化する手は何か。このゲームにおいてプレーヤーは誰の立場になるのか。プレーヤーの視点をどこに置くように仕向けるのか」といったことを考えなければならない。

ロールプレイ

「ヒーロークエスト」は、「ロールプレイング・ボードゲーム」という売り文句で販売されている。このゲームでは、テーブルトークRPGと同じように、各プレーヤーに1人づつPCが与えられる。PCは、ボード上に置かれたプラスチックの駒で表される。
プレーヤーが1人のキャラクターを操るということは、「ロールプレイ」していることになるし、それならこのゲームの「ロールプレイング」という売り文句は正しいわけだ。そうだね?

いーや、違う。このゲームでは誰も「ロールプレイ」などしない。

問題は「感情移入」と「ロールプレイ」の混同にある。この2つは別のことだ。全くロールプレイしないで、かつ1つのゲームトークンに強く感情移入することだって可能なのだ。ある意味では、感情移入はプレーヤーからキャラクターに向けた動きであり、ロールプレイはキャラクターからプレーヤーに向けた動きと言える。両者は方向が逆なのだ。

ロールプレイの方は人により、またゲームにより様々である。キャラクターの母国語や口調を真似てしゃべる。セリフに感情を込める。あるいは、普段と同じように話しながらも、「にどんな手を打とうか」ではなく「このPCはこんなときどうするだろうか」ということを真剣に考えているなら、それもロールプレイである。

当然のことながら、ロールプレイをもっとも活用しているのはテーブルトークRPGだ。だが、他のゲームでもロールプレイが行われることはある。例えば、私は Vincent Tsao の「フンタ」をプレイするとき、どうしてもいい加減なスペイン語風のアクセントでしゃべってしまう。なにしろ、このゲームをやっていると頭の中が腐敗したバナナ共和国の大物になりきってしまうので、嫌でもロールプレイせざるを得ないのだ。

ロールプレイがゲームデザインにとって非常に有効なテクニックである理由はいくつもある。まず感情移入を強化する効果がある。キャラクターと同じように考えようとすれば、自然とキャラクターに強く感情移入するわけだ。また、ゲームの雰囲気を高める効果がある。ゲーム中は「このゲームの背景世界はリアルで、雰囲気ばっちりで、決してご都合主義じゃない」という感じを何とか維持し、白けないようにするため意識的に騙されなければならないわけだが、ロールプレイしているうちに「皆で協力して幻想を支えているんだ。恥ずかしいのは俺だけじゃない」という連帯感が生まれてくるのである。最後に、ロールプレイにはプレーヤー同士の交流を深めるという効果がある。

実際、この点が最も重要だろう。ロールプレイは一種の芸であり、テーブルトークRPGにおいては、プレーヤーは他人を楽しませるために芸を見せることが出来る。逆に言えば、見てくれる他人がいなければ、芸をする理由はないわけだ。

ここが、いわゆる「コンピュータRPG」が、実際のところRPGではない理由である。
RPGとは呼べない、という点では、コンピュータRPGは「ヒーロークエスト」と似たようなものだ。確かに登場するトラップ、キャラクター、アイテム、ストーリーは、テーブルトークRPGに出てくるものと同じだ。しかし、コンピュータRPGには、プレーヤーに演技をさせたり、芸をさせたりするための仕掛けがない。プレーヤーは、いかなる意味でもロールプレイしない。

これは本質的なポイントである。コンピュータ・ゲームは一人遊びだ。一人遊びでは、その定義から明らかなように、観客がいない。観客がいないのに芸をする必要はない。ゆえに、プレーヤーにロールプレイさせることが出来ない。

同じコンピュータを使っていても、ネットワークでRPGをすることは可能である。だからこそ、MUD (訳註-8)にあんなに人気があるのだ。

ゲームを分析するときは、「このゲームで、プレーヤーにロールプレイさせるための仕掛けは何か。どのような演技が可能で、どのような演技を狙っているか」ということを考えなければならない。

プレーヤー同士の交流

歴史的には、ゲームは主に社交の手段として使われてきた。「ブリッジ」「ポーカー」「ジェスチャーゲーム」といったゲームの場合、最も大切なのは一緒にプレイしている仲間との交流であって、勝敗は二の次といってよい。

(文字化けのため不明)コンピュータゲーム、CD-ROMゲームといったものが本質的に一人遊びだというのは、とても奇妙なことである。かつては、ゲーマーといえばテーブルを囲んでトランプで遊んでいる人々というイメージだった。しかし、今やゲーマーというと、チカチカ瞬くモニタを見ながらジョイスティックを握りしめている孤独な青年、という図が眼に浮かぶ。

だが、ゲームが全て一人遊びに占領されつつあるかというと、そうでもない。例えば、テーブルトークにせよ、ライブアクションにせよ、RPGは順調に発展を続けている。RPGは人間同士の交流に主眼をおいたゲームだ。それに、「トリビア」や「ピクショナリー」のように、本当に広く普及したボードゲームは、まず大抵の場合、パーティのような社交の場でプレイされるではないか。

それゆえに、現在のコンピュータゲームの大半が一人遊びだというのは単に技術的な制限によって生ずる一時的な問題であって、ネットワークが普及して利用可能な帯域が増加すれば、再びゲームと「プレーヤー同士の交流」が切っても切れない関係に戻るものと私は信じている。

だから、ゲームをデザインするときは、そのゲームがプレーヤー同士の交流にどう関わってくるか、ルールが交流を促進するか阻害するか、よく考えた方がいい。
ほとんど全てのパソコン通信ネットワークには、「ポーカー」や「ブリッジ」といった伝統的なゲームをオンラインでプレイできるソフトが用意されているが、まず誰も利用していない。

例外は「アメリカ・オンライン」のサービスだ。他のネットと違って、このネットでは、複数のプレーヤーがリアルタイムにチャットでおしゃべりしながら「ブリッジ」をプレイ出来る。このサービスに非常に人気があるのはなぜか、考えてみるといい。

(文字化けのため不明)RPGのデザイナーが犯している過ちについて考えてみよう。その過ちとは、「リアリティ」という点にあまりにも労力を費やし過ぎて、プレーヤーのことを忘れてしまうというものだ。
もし、非常にリアリティを重視した戦闘システムを作ったとして、1戦闘ラウンド処理するのに15分、1つの戦闘が終了するまで4時間かかるとしたら、それが何になるだろう。その間、交流も進まず、会話も弾まず、ロールプレイも行われず、ただ黙々とダイスを振ってチャートを見るだけだとすれば、誰がそんなものをプレイするというのだ。

ゲームを分析するときには、「このゲームをプレイしているとき、もっとプレーヤー同士の交流を促進するにはどうすればいいか」ということを考えなければならない。

劇的な盛り上がり

ネビュラ賞を受賞した作家Pat Murphy によると、小説のプロットを作るコツは「緊迫感を高め続けること」にあるそうだ。つまり、ストーリーが進むにつれて話をどんどん盛り上げてゆき、クライマックスシーンまで読者をぐいぐい引っ張って離さないというわけだ。

あなたがヤンキーズのファンだとしよう。もちろん、あなたはヤンキーズの勝利を望んでいるだろう。しかし、球場に駆けつけたあなたは、ヤンキーズが第1イニングから7点差でリードし、そのまま21対2というぶっちぎり大差でつ、そんな試合を見たいだろうか。そりゃヤンキーズが負けるよりはマシだろうが、こんな試合は面白くないと思うに違いない。
それに対して、最終回の終了間際、もはやこれまでかと思われたとき、ヤンキーズが逆転サヨナラ満塁ホームランをかっ飛ばしてくれたなら、きっとあなたは興奮と歓喜のあまり座席から飛び上がって歓声を送ってしまうことだろう。かように、緊迫感はゲームを面白くしてくれるのである。

プレイ中ずっと緊迫感が続くゲームが理想的だが、それが無理でも、せめてラスト近くでは緊迫感あふれるゲーム展開が望ましい。ラストで最悪の問題、最大の難関を突破してこそ、ゲームは盛り上がるというものである。
もちろん、毎回こんな風にゲームが劇的に盛り上がるというのは無理である。特に、プレーヤー同士が直接に敵対するようなゲームではそうだ。「チェス」のグランドマスターと素人が対戦しても、緊迫感も盛り上がりも期待できないだろう。が、一人遊びであるコンピュータゲームでは、どの面にも障害物を配置しつつ、本当の難関はラストに置くということが出来るはずだ。

実のところ、アンチクライマックスという失敗を犯しているゲームはとても多いのである。ラストではなく途中で緊迫感が最高に盛り上がってしまい、そこでボス敵が逃げ出してしまうとか、キャンペーンの途中でキャラクターが強くくなり過ぎて無敵になってしまうとか、そうなった結果、白けた気分でラストを迎えてしまうのだ。
こうなる原因は、たいていデザイナーが劇的な盛り上がりについて考えなかったせいだ。

ゲームを分析するときには、「このゲームを盛り上げるにはどうすればよいか」という点について考えなければならない。

全てのゲームはダイスの下で兄弟である。・・・あるいは明けの明星の下で、またはともかく何かの下で

さて、ようやく最初に提出した質問に答える準備が出来た。

質問:無数の種類があるゲーム全てに共通する要素があるのだろうか?

回答:確かにある。全てのゲームは「意志決定」「資源管理」「目標」を持っている。
これは「チェス」「セブンス・ゲスト」「スーパーマリオ」「バンパイア」「ルーレット」「マジック:ザ・ギャザリング」の全てに共通する。これこそが、「ゲーム」の定義なのだ。

質問:「良いゲーム」と「悪いゲーム」をどうやって見分ければいいのか?

回答:残念ながら、まだ最終的な答えは出ていない。しかしながら、ゲームの魅力を分析するときに役立ちそうな基本概念はいくつか見つかった。
「チェス」の魅力は、複雑で困難な「意志決定」にある。「マジック:ザ・ギャザリング」の魅力は、果てしなく多彩な展開に求めることが出来る。「ルーレット」は、強烈な「目標」を持っている。(つまり、現金だ)
もっと詳細な分析が可能なことは疑うべくもない。だが、それは読者のために残しておこう。

ここまでに示したゲームの分析理論は、最終的な完成版だろうか。もちろんそうでないことは確かだ。世の中には、今まで展開してきた私の議論の、全てとは言わないまでも、一部の結論を否定するようなゲームが存在する。(例えば、「キャンディランド」には、全く意志決定の要素が含まれない)それに、ゲームの魅力のうち、これまで議論されなかったポイントがまだまだ存在することは間違いない。

だから、このゲーム小論は、中間報告だと考えてほしい。いつの日か「ゲームデザイン技の分析理論」といったタイトルでまとめられるべき、包括的な体系を構築する最初の試みなのだと。
他の人が、私がここに示した分析手をベースにして議論を展開してくれることはありがたいし、むしろどしどしやってほしい。また、私の議論に賛成できない方は、別の理論を提案して反論してくれると嬉しい。

もし、ゲームデザイナーが「芸術」と呼ばれるに値する仕事をしたいのであれば、ともあれ商業的な成功を超えた高みに目標を置くにはどうすればよいか考え始めなければならない。
なぜなら、ゲームデザイナーという仕事は、民主的な「観客参加型の芸術の創造」を目指す、芸術改革運動の担い手となりうるからだ。
もし、この運動が成功すれば、ゲームデザイナーは人類の文明をさらに高めることが出来るだろう。失敗すれば、このTV時代に、知性の欠落したさえない娯楽がまた1つ生まれたというだけで終わるに違いない。



著者は、以下の方々のアイデアを自由に拝借させていただいたことに対して、深い感謝を捧げるものである。
Chris Crawford, Will Wright, Eric Goldberg, Ken Rolston, Doug Kaufman, Jim
Dunnigan, Tappan King, Sandy Peterson, and Walt Freitag.

表記について: (訳註-9)
通常、「チェス」「碁」「ポーカー」といった伝統的ゲームの名称は、普通名詞として扱われるため、英語では最初の文字を小文字で表記する。それに対して、新しくデザインされたゲームの名称は、固有名詞であるため英語では最初の文字を大文字で表記することになっている。
ゲームは芸術の一種であり、全てのゲームはその起源に関わらず作品として等しく扱われるべきであるという主張からすると、こういう慣習は許されないことである。そこで、この小論ではゲームの名称の最初の文字は全て大文字で表記した。

叙事詩「ベーオウルフ」は、特定の作者によって書かれた作品ではなく民間伝承の産物であるにも関わらず、「百年の孤独」といった書名と同じく、タイトルの最初の文字は大文字で表記される。同様に、私は「チェス」が特定のデザイナーによって作られた作品ではなく民間伝承の産物であるにも関わらず、「ダンジョンズ&ドラゴンズ」といったゲームと同じく、タイトルの最初の文字を大文字で表記することとした。「チェス」といったタイトルが固有名詞扱いされているのは奇妙に思えるかも知れないが、私はちゃんと理由があってそういう表記にしたのである。

また、ゲームのタイトルが最初に登場するときは、可能な限りデザイナーの名前を最初に示すこととした。デザイナー名が省略されている場合、それは単に私がデザイナーの名前を知らないというだけのことである。


Copyright 1994 by Greg Costikyan. All Rights Reserved.
著者へのコメントは、e-mailで costik@crossover.comまで。

----原文はここまで。

訳註

ハイパーテキスト
ここでいう「ハイパーテキスト」とは、読者の選択によってプロットや結末が変わるインタラクティブ小説のこと。いわゆる「アドベンチャーゲームブック」もその一種。

政治的に正しい(ポリティカリー・コレクト)
1980年代から米国で始まった「差別や偏見に基づく表現や、マイノリティに不快感を与える表現を規制しよう」という運動に沿った表現や発言を指す。日本における「差別表現の自主規制」の米国版。

モータルコンバット
残虐な殺しあいを楽しむコンピュータゲーム。

Tokyo Rose
第二次大戦当時、NHKの対米謀略放送を担当した日系二世の女性に、米国の兵隊たちが付けたニックネーム。

ゼロサム型ゲーム
もともと「誰かが得をすれば、その分だけ他の人が損をする」タイプのゲームを示す。ここでは、「どんな指し手についても、得をするのは1人だけであり相互利益という要素がない」ゲームを指している。

インタラクティブTV
ケーブルTVに双方向性を持たせ、視聴者が番組内容や画面構成を操作できるようにしたり、買物やソフト配付といった新しいサービスを可能にする計画を指す。

カトル・ブラ
ワーテルローの戦いの前哨戦が行われた場所

MUD (Multi-User Dangeon)
舞台は「ローグ」のようにテキストグラフィックで表示され、状況は「ゾーク」のようにテキスト表示される。ここで、複数プレーヤーが相互にチャット(オンライン会話)しながら戦いを繰り広げる。

表記
翻訳においては、ゲームの名称を全てカギカッコで囲んで表記した。また、ゲームの名称は全て日本語で表記し、デザイナーを始めとする人名、会社名についてはアルファベット表記に統一した。



著者紹介

職業ゲームデザイナー。1976年にSPI から出た North Africa Quad のうちの一つのデザインを担当してデビュー。 1975〜1982まで
SPI で働き、 1985〜1987にかけて WEST END GAMES の R&D チーフを務める。現在までに23個のゲームをデザイン/出版し、それ以上のゲームのデベロップを担当。Origins 賞を5回受賞。

主な作品

ゲーム

パックス・ブリタニカ, Pax Britannica (VG), Origins 受賞
ウェブ・アンド・スターシップ, Web and Starship (WEG), Origins 受賞
怪獣征服, The Creature that ate Sheboygun (SPI), Origins 受賞
魔の大陸, Barbarian Kings (SPI)
死の迷宮, Death Maze (SPI)
スターウォーズRPG、Star Wars RPG (WEG), Origins 受賞
パラノイア、PARANOIA (WEG), Origins 受賞
トゥーン、Toon (SJG)
上記の他、Air War (SPI), Imperium Romanum (WEG), Killer Angels (WEG) 等のデベロップを担当。

小説

ANOTHER DAY,ANOTHER DONGEON 長編ファンタジー
BRIGHT LIGHT BIG CITY "ISAAC ASIMOV'S SF MAGAZINE" 1991年2月号掲載

その他

現在は Crossover Technology 社で、ネットワークを用いた直接民主制によってアメリカの政策を決定する大がかりなシミュレーション "ReInvent America" のプロジェクトを手がけている。
Greg Costikyan 氏本人の Home Page は http://www.crossover.com/~costik/greg.html である。


日本語版について

日本語版は、著者の許諾のもと、NIFTY-Serve ロールプレイングゲーム・メインフォーラム (FRPGM) の有志によって、1995年10月から11月にかけて作成されたものである。

企画・制作:

FRPGM 英文翻訳プロジェクト design_j.txt制作チーム

代表:

馬場秀和 (PDF00200)

協力:

Bugger  (LDA00166)
SHIGE(SDI00627)
御宗銀砂 (HGF01053)
AGE  (NBB02052)
御宗銀砂 (HGF01053)
AGE  (NBB02052)
とろり  (GAG02164)
RIDDLE  (NCB02234)
Shino  (HFH00072)
佐藤俊之 (PGB01043)
西川知宏 (VED04252)
Genich!  (SDI00769)

translated and formatted by Nishio Gen-ichi , who has an English-language home-page.

※本来は、この文章があったURLにリンクを張るつもりでしたが、
 URLを失念してしまったため、転載する事にしました。(殺助)


<<戻る<<